社会学でも、文化人類学でも、機能主義というものが流行った時代があった。
今から八〇年程度前の機能主義。
マリノフスキー、ラドクリフ=ブラウン、そしてマルセル=モース。
彼らのことを指して機能主義人類学、および社会学という言葉が使われるが、やはり彼らの師は、
デュルケムである。
社会分業論の分業の機能の最初の節に、機能という語への考察がある。
その説明によると、機能という言葉は、2つの使われ方がされている。
一つ目は、生命の運動体系をその結果から切り離した使われ方。呼吸機能というときの使われ方がそうである。
二つ目は、その運動と有機体の諸要求との間に存在する対応関係で示される使われ方。呼吸は、動物の身体組織内に、
その生命を維持するために必要な期待を送り込むことを機能とする、などというときの使われ方である。
一つ目の用法は、原因のみをさし、二つ目の用法は、原因と結果を含めて説明している、と考えるとわかりやすい。
デュルケムによると、≪われわれが機能という語を理解するのは、この第二の意味[※二つ目の用法]においてである≫という。
すなわち、全体を見る必要があるということ。原因だけを説明して、結果を見ないことは許されないことを言っているのである。
そして、社会に関する学問において、因果関係を前提とした綿密な考え方をフランスにおいて最初に導入したのがデュルケムだったため、その弟子にあたるモースやブラウン、マリノフスキーが機能主義と呼ばれることになった。
しかし、構造主義においても、すべて機能主義と同じではないが、やっぱり全体を見ることを忘れてはいない。
レヴィ=ストロースの構造主義はたしかに、わかりづらい側面がある。特に、神話論は難しい。
この話はのちに重要にはなってくるが、今はここでとどめておく。ひとつ指摘することがあれば、エヴァンス=プリチャードやニーダムの構造主義は機能主義を直接発展させた重要なものだということ。
ゆっくり進みましょうね。
スポンサーサイト