浄土宗信徒日常勤行式の現実的訳3
- 2016/06/11
- 23:29
法然上人の遺された一枚の起請文―一枚起請文の現実的訳
中国大陸から我が国に、たくさんのえらい人が言った観念や学説で心をさとる必要がある念仏ではなく、ただ、極楽にいくために南無阿弥陀と唱えて、疑わずに、極楽へいくぞと思い続けるほかには、仔細は問わない。
ただし、三心四修〔みっつの心構えと、よっつのなすべきこと〕だけはちゃんとまもって、南無阿弥陀〔阿弥陀様にすべて任せます〕と唱えて極楽へいくぞと思うことに集中しなさい。このほかに深いことばかり考えると、二尊〔だいじにすべき二人の仏様、観音菩薩と大勢至菩薩〕の憐れみ外れて、本願からも外れてしまう。念仏を信じない人は、たとえ一代の法律や真理をよく研究しても、文字を知るだけの存在になってしまい、愚鈍の身となる。尼さんの知らないことと同じように、智者〔知ったかぶりの思い込み〕のふるまいをせず、ただ、一向に、念仏を行うべきである。
念仏を唱えている証のために、両手を合わせて、それを印としなさい。
浄土宗の安心起行〔阿弥陀仏の本願にすがる心で得る心への道〕はこの一枚の起請文にすべてがつまっている。源空〔法然上人〕がこのほかに、全く別の義を知らない。
死後のよこしまな義を防ぐために所存をここに記しました。
建暦二年正月二十三日〔西暦1212年2月27日〕大師在御判
摂益文
「しょうやくもん」と読みます。浄土三部経の一つ『観無量寿経』から取られています。
「利益を合わせて取るための教え」という意味。スッタニパータ5-4 一〇四三から一〇四六参照。特に一〇四六。真宗聖典『仏説観無量寿経』上品上生(22)、上品中生(23)、上品下生(24)も参照。特に23。
利益をあわせて取るための教え―摂益文の現実的訳
阿弥陀という過去に悟った人の光明は、全世界全宇宙の隅々まで照らして、念仏(仏を念ずるー悟った人に祈念すること)をするすべての人々を捨てずに、お救いになられます。
念仏一会 ― 念仏を皆で集まり、唱えること
別回向
回向とは、2で訳した通り、自らの悟りや他社の利益や悟りのために自らの修めた功徳をめぐらすこと。本回向に対する別回向。スッタニパータ一一〇七参照。少なくとも、仏陀がこうしたことを言った背景には、祖先の(聖なる)霊への崇拝があると後世の大乗仏教者は考えた可能性が高い。
本回向とは違う、回向の一側面―別回向の現実的訳
お願いします。これまで収めてきたおつとめの功徳をことごとく、回向(悟りに一心に向かうこと)して、ご先祖様の霊位が浄土に生きることを超えますように。
当家(ひいては全人類)の先祖代々の一切の先に亡くなったすべての精霊(人々の魂)が菩提(悟り)をよりよくしてくれますように。
総回向偈
すべての回向の教え。スッタニパータ一一一四、一一一五参照。
すべての回向の教え―総回向偈の現実的訳
お願いします。この功徳、すなわち念仏を唱えて修行して得られた徳をすべての人々に平等に施してください。そして同じく、菩提心、つまり悟ろうとする心をすべての人々に起こしてください。極楽安楽国に往きて生きましょう。
十念
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