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徹底的な独我論と徹底的な相対主義は両立可能か-神と人。創造主と被造物。霊性と物質性。様々な対立概念への悟性的アプローチ

みなさん、こんばんは!
草の根平和推進者 平高橋聡です。
 
 
タイトルにある独我論とか相対主義。
そういう言葉をあまり聞かない人のために、まず単語の説明をします。
 
 
独我論とは、自分だけの世界があり、わたしは他人とは世界は共有していない、
または世界についての共通理解はできないという哲学上の立場の事を言います。
 
 
一方、相対主義とは、一般に他人には他人の考えがあり、
他人の考えと自分の考えは異なるけども、どちらも重視すべきだという考え方です。
 
 
さて、副題には神と人や創造主と被造物、霊性と物質性という宗教的な単語が並んでいます。
これについては、何もここでは宗教的な言説だけを言っているわけではありません。
つまるところ、一見矛盾しているような対立概念は本当に対立しているのか、という問題を少し考えたいわけです。
 
 
ただ、ここで言っていることは全く論理的なわけではありません。
かといって、全くもって感情的というわけでもありません。
知性とか悟性の領域の問題です。
 
 
例えば、少し考えて欲しいのですが、輪廻は本当にあるでしょうか?
この意見に関して言えば、実証的に輪廻があるか否かは調べる術がありませんから、
科学的言説としては成立しません。
 
 
ぼくは、この問題はその人自身にあるとしか言えないと思っています。
どういうことかというと、輪廻があると信じていれば、本当におそらく輪廻が来るというものです。
逆に言えば、輪廻などないと信じていれば、おそらく輪廻はこないということです。
 
 
仏教的な涅槃もそうです。
涅槃は一般的には、完全な死とか輪廻からの解脱という境地を指すと言われます。
でも、この言い分だけではよくわからないでしょう。涅槃とは、永遠の安らぎという境地を指します。
 
 
この涅槃があるかないかもやはりその人が信じているか信じていないか次第でしょう。
龍樹が『中論』で輪廻は空である。涅槃は空である。輪廻は涅槃であると言ったのは、おそらくこのことと関係します。
ここでは空について詳述することはしませんが、独立の論考としてこの部分を考えるだけでも面白いと思います。
 
 
同様に、霊魂不滅の考えにしろ、最後の審判にしろ、同じようにその人が信じればあるということです。
様々な救いもまた同じです。現世で救いがあると信じている人は、必ず現世で救いがあります。
来世で救いがあると信じる人は、来世で救いがあるようになるのです。
 
 
次の聖句を見てみましょう。

新共同訳聖書 マタイ7:7-8
//
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
//
 
そう、この言葉を率直に受け取って信じられない人には、その通り来ません。
いっけん敬虔なクリスチャンでも、この部分だけ信じられないという人は割と多いと思います。
だからこそ、信仰に至る道はラクダが針の穴を通るより狭いのです。
 
 
簡単な引き寄せの法則と同じです。
そんなに難しいことは言ってません。
本当のことに気づいて、本当に信じてその努力をするだけで報われるということです。
 
 
もちろん、そのためには正直であることなどがもちろん必要です。
聖書にしろ、数多くあるブッダの教えにしろ、コーランの教えにしろ、
その大事さを教えていると私は感じます。
 
 
結局、神と人に絶対的な差異があったとしても、神に似た者になれる(コリント第二 3:18)とある通り、
おそらく近い存在にはなれます。結局のところ、仏とはそのような存在に極めて近いのではないでしょうか。
それはともかく、絶対的な対立と思われるものも、差異に着目すれば、その通りですが、近さに着目すれば、対立をなしていません。
 
 
創造主と被造物の関係も上に同じ。
一つだけ注意しておいて欲しいのは、あなたは常に創造主の右に座し、日々被造物を作り変えているということです。
もちろん、これは私もそうです。人間同士の相互的な影響、環境破壊などもこの観点から見ると自分の責任が自覚できます。
 
 
いちいち対立する概念を上げていくことはここではしません。
大多数の人にとって、今はこのことが理解できないでしょうから。
しかし、これだけは言っておきます。
一方の極に立って批判したり何事かをなすのは容易いことですが、本当の中道や中庸といったものは本当に難しいものです。
 
 
責任を自覚した行動を共にとって参りましょう。
私は聖書の次の聖句には常に気を配っています。
 
 
新共同訳聖書 ヨハネの黙示録/ 21章 08節
//
しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、
人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、
偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、
火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。
//
 
 
さて、結局宗教的なことの話が多くなってしまいましたが、
共産主義信仰や資本主義信仰でも話は全く同じです。
 
 
この世界観は全くの私だけの、少なくとも今は、独我論と言っても間違いないでしょう。
しかも、他人がどうなるかは他人次第というわけで、徹底的な相対主義でもあります。
 
 
ゆえに、徹底的な独我論に陥ると、徹底的な相対主義に行き着かざるをえません。
逆もまた然り。眠いので今回はこれまで!おやすみなさいませ。
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Satoshi Takahashi

Author:Satoshi Takahashi
すべての出会いに感謝いたします。
いろんなことを考察し、可能性を明らかにするブログです。
すべて正しいことが書いているとは限りませんし、逆にすべてが間違いでは絶対にありません。
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大航海時代オンラインでは、『アンチ・クリマクス』『あれかこれか』『レギーネ・オルセン』『S・ヴェイユ』『ヨハネス・クリマクス』『S・キルケゴール』『沈黙のヨハネス』として活動してました。