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行動と理論、理論と行動

「行動が理論に優先する」として、行動主義を掲げる人は多い。理論的に考えることなど二の次で、まずは(考えるにしろ、考えないにしろ)行動をとらないと意味がない、彼らはこういう。

もちろん、行動をとってみないとわからないこともたくさんある。そのことを否定することは毛頭ない。だが、だからといって頭で考えてみることの大事さを否定することは私にはとてもできない。

どういうことか、簡潔にいうと次のことになる。

まずはじめに行動ということについて。行動とは一般に、何かをすることであって、考えること、あるいは考えるだけのこと、言論行為などとは対照的に捉えられることが多い。そういう捉え方からいうと、何かを食べること、働くこと、寝ることも含めて何かをすることは「行動」だが、考えるだけのことは、行動ではないのだ。だが待ってほしい、これはそもそも本当なのか?食べる、寝ることならどの動物でも行うではないか。働くことは、蟻でも行うではないか。何かをすることだって、イエネコなどペットでもできるではないか。では人間にしかできない行為は何か、それは話すこと、そして考えることである。つまり、二分節以上に分化された音を操り、概念操作できるのが人間の動物とは隔てられる最大の特徴である。

こんなことは、古代インドや古代ギリシャの哲学者・宗教者が既に指摘しているように、自明の理であると思われている。だが、このことを敷衍して考えると、人間的行動と言論活動はそもそも分離不可能であろう。つまり、行動だけでは動物とは変わらないわけだから、人間的な行動には言論行為が必然的に伴う。このことに関連して、考えるだけ、とは本当に存在するかについても付言したい。人間的行動には考えることが必然的に伴うといったが、考えるだけで完結してしまうことはあるだろうか。もちろん、そのように見えるだけのことは多い。だが、人は何かについて考えた後、それを忘れてしまうことがあるのは事実だ。だが、それだけでも考えるだけ、で済んでるとはいいがたいであろう。思考自体は忘れられても、そうした思考のプロセス自体が存在しないとは言えないし、何より忘れてしまったとしても、そこで考えつくまでに踏んだプロセスがのちにどう考えるか、つまり物事があり、ある考えを導出するのに、影響を全く与えないとは絶対言えないであろう。

もちろん、私は人間的行動というのは、すべてがすべて良いものと言っているわけではない。人間は考え方次第では、例え殺される危険性があっても、人に暴力で反撃しない、非暴力主義をとることもできるが、逆に、考え方次第では、敵対する人間を皆殺しにするとか、あるいは人類全体を抹殺するとかそういう行動も極端に言えば取れるのである。これも考えることなくしては、動物にはないことである。つまり、考え方が行動に及ぼす影響はプラスとマイナスの両面があるということである。

ここまで当たり前のことを考えた。だが、この当たり前のことは指摘されるとわかるのだが、つい忘れてしまう人間があまりにも多いのである。

次に歴史的にみてどうかである。人は同時代に生きる人間を評価するとき、その人の行動や考え方を見る。もちろん、歴史的にも当時代の評価というものがまずあるのは間違いない。だが、同時代に生きる人たちの評価は、怏々として歴史的に忘れ去られていく。では何が大事なのか。考えるために、具体例をあげよう。たとえばアショーカ王。彼は、古代インドにおいて、仏教を広め、大きな領土を持つ国をつくり、仏典結集を主導し、大きな功績を残し、生きた当代に置いてはさりとて評価が高かった。だが、現在のインドにおいては、仏教はほとんど存在しないし、アショーカ王の功績を誇り高く語る人間などまずいない。対照的な例として、仏陀はどうか。アショーカ王の生きた時代の100年以上前に生きた仏陀は、王族として生まれながらも、世に苦しみが絶えないことを嘆き、一度は世捨て人となり、彷徨い、苦行も行ったが、それに満足できず、沙羅双樹の下で瞑想している際、悟りを開き、人がどういきるべきかの指針について助言を行った。彼の教えはさまざまに脚色されながらも、現代において、大きく生きており、2500年も前に生きた彼を慕う人間も多いではないか。だが、当代の帰依した人間以外の評価は極めて低かったであろう。この差が、大事なところである。つまり、後世に残るような評価というのは、その人の考え方とそこから生まれた行動からなされるのである。仏陀は考えぬいた末に悟りを開き、人の生き方に関する助言を行った。この行為がなくしては、人類史上に名を留めることは決してなかったであろう。

同じことは、カール大帝とイエス・キリストについてもいえるであろうし、サラディンとムハンマドについても同様だろう。前者はせいぜい当地の英雄として名を留める程度だが、だが、後者の考え方は現代においてもきわめて大きな影響力を与えているのを否定できる人は少ないだろう。

宗教者の例がわかりやすいので出したが、宗教だけが人の考え方に影響を与えるだけではないのはもちろんだ。たとえば、民主主義の祖と仰がれるルソーはどうか。彼は考えることが支離滅裂で、今日的にいえばうつ病を発症し、最後は人との関わりあうのを捨てて死んだ。もちろん、当代に影響力こそ残しはしたが、評価が高いわけではなかった。だが、彼の現存するテキストに生きる彼の情熱と、その考え方に(全面的ではないが)賛同し、慕う人間などいくらでもいる。おそらくだが、1000年後人類が残っているとすれば、ルソーは民主主義の祖として、歴史に名を留めることになるが、ジョージ・ワシントンやナポレオンはアメリカやフランスの英雄としては出てくるかもしれないが、当人の考えが1000年後の人間を動かすことはおそらくないだろう。

このように歴史的にみると、「理論は行動は優先する」としか言えない側面もある。もちろん、人類が地球に誕生して以来、行動と考えというのは、常にダイナミックに交互に繰り返されることで、人間の歴史が作り出されたことを否定するわけではない。そこらへんを考えると、やはり行動と理論は人間的には分離できないものだと考えざるをえない。


理論と行動、つまり思考と行為との完全な区別はできないとは言ったが、それはどういうことか。

ーカントの二つの用語・純粋理性と実践理性
このことを考える上で助けとなるのが、哲学者イマヌエル・カントの純粋理性、実践理性(及び判断力)といった概念である。そういう言葉を出されるとしばしば人は何を言っているのかわからなくなることが多いが、今回の主題と密接な関係があるのである。簡単にいうと、純粋理性とは純粋に思考する際に用いる理性というくらいの意味あいである。そして、実践理性は人が行為する際に用いる理性、判断力は趣味や美的判断の際に用いる理性のことである。この純粋理性と実践理性とは、しばしば対立概念として捉えられることが多い。もちろん、思考と行為が一応の対立をなしているうちは、この二つの理性はカントにおいて、対立的に用いられることがあるのは否定できない。だが、カントは全くその二つの理性が対立的なものだとは要ってはいないのである。簡単にいうと、理性には三つの領域があり、それが純粋理性、実践理性、判断力といったもので、それぞれが相互補完的な役割を担っている。

―純粋理性と実践理性の共通項は「理性」
では、このカントの用語の意味をなぜ確認したのかというと、人は純粋に思考する際にも、行為をなす際にも、理性を用いているとカントは指摘している事実が重要だからである。もちろん、カントにおいて、純粋理性はいわば物事の究極を考えるに至り、実践理性は行為の価値基準すなわち倫理、道徳に話が流れるのがすべて正しいとは私も思わない。さりとて、このどちらの行為にも理性が働いているというのは、今回の話題にはきわめて興味深い。後の英米の哲学者が「行為」と「思考」を二項対立的に捉えていたのとカントの考えとは全く違うことをここでは触れておく。

―ヘーゲルの労働の概念
ここで理論と行動は、形骸的概念になる、つまり、対立的概念だと思われていたものが、重なり合っている部分が多く完全な対立をなさず、むしろ共通点のほうが大きいことが示され、その区別があいまいになってしまった。この二つの媒介項となるのが、言語であるが、ヘーゲルはもう一つ重要なものとして、労働を挙げた。ここでいう労働とは、家事労働や社会的労働との区別を問わず、また身体的労働と精神的労働との区別を問わない、かなり大きな働くということを多く包摂するものである。この人間的労働は、現代社会においては分業によって成り立っており、自分ができないことを他人がなしていることである社会は成り立っている。また、他人ができないことを自分が行うことで、ある社会は成り立っているともいえる。これを自覚することで、労働という概念は、相互依存的に人々が存在することを示し、また一定の共通理解が必要であることを示す。

―労働と言語
もちろん、分業的な労働は、動物社会でもある程度存在するであろうが、人間にはその自覚があること、それがヘーゲルは大事だという。その自覚に必要なのが、言語であることは間違いない。そして、この言語というものも、かなり注意深く考えなければならないことではあるが、一定の共通理解と相互依存という特色を併せ持つ。どういうことかというと、まず言語は差異を認識する道具としての意味の連関であるが、これは人によってかなり振れ幅があるとはいえ、やはり同じような言語に関する知識の土台がないと成り立たない。そして、言語の相互依存性とは、言い換えれば相互理解ということある。思考と行為をそれぞれ伝達するものとして存在する言語において、それぞれの言明や考えは明らかに全く同じものではないとはいえ、自分が考えられないことや発言できないことを、他人が行うことを知り、また他人と自分を逆にしたことを知ることである。相互理解が全く不可能に思えることがあるが、話すことで解決することがあったりすることからも、その段階である程度、相互的了解が取れることがあることからも、これがわかる。

ここでは、少し区別ができないことを考えてみたが、結局は理論と行動は主体としてだけ存在するわけではなく、社会的に何らかの意味を持つことが多いのである。次は、その社会に関することを少し考えたい。
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Satoshi Takahashi

Author:Satoshi Takahashi
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大航海時代オンラインでは、『アンチ・クリマクス』『あれかこれか』『レギーネ・オルセン』『S・ヴェイユ』『ヨハネス・クリマクス』『S・キルケゴール』『沈黙のヨハネス』として活動してました。