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法然上人の一枚起請文と富永仲基の話

法然上人の遺された一枚の起請文
中国大陸から我が国に、たくさんのえらい人が言った観念や学説で心をさとる必要がある念仏ではなく、ただ、極楽にいくために南無阿弥陀と唱えて、疑わずに、極楽へいくぞと思い続けるほかには、仔細は問わない。
ただし、三心四修〔みっつの心構えと、よっつのなすべきこと〕だけはちゃんとまもって、南無阿弥陀〔阿弥陀様にすべて任せます〕と唱えて極楽へいくぞと思うことに集中しなさい。このほかに深いことばかり考えると、二尊〔だいじにすべき二人の仏様、釈迦と阿弥陀仏?〕の憐れみから外れて、さらに本願からも外れてしまう。念仏を信じない人は、たとえ一代の法律や真理をよく研究しても、文字を知るだけの存在になってしまい、愚鈍の身である。尼さんの知らないことと同じように、智者〔知ったかぶりの思い込み〕のふるまいをせず、ただ、一向に、念仏を行うべきである。

念仏を唱えている証のために、両手を合わせて、それを印としなさい。

浄土宗の安心起行〔阿弥陀仏の本願にすがる心で得る心への道〕はこの一枚の起請文にすべてがつまっている。源空〔法然上人〕がこのほかに、全く別の義を知らない。
死後のよこしまな義を防ぐために所存をここに記しました。
建暦二年正月二十三日〔西暦1212年2月27日〕大師在御判


これが僕が訳した訳文です。
この文章が日本語できれいですっと伝わる文章として、残されている理由はわかります。800年以上前の文章とは思えないほど、心に問いかける文章であるからです。

さて、それはおいといて中身はどうでしょうか。今までの煩雑な学問とかした仏教の教えに異をとなえ、本当の念仏とは、南無阿弥陀仏(阿弥陀仏にすべて任せます)ということだけだと。あとは守るべきことを守れば、ちゃんと成仏できます。ということ。

これってでも上座部仏教から大乗仏教への変遷と似てないですかね?インドや諸国でそうなったように、実際日本版の上座部から大乗への切り替わりと見てもいいすぎじゃないと思います。
日本での、智者の仏教から民衆の仏教への切り替わりに法然上人は立っているといっていいです。

これは一種の原点回帰ではないでしょうか。つまり、仏陀はすくなくとも、サンガ集団内以外の一般信徒たちにも相談にのり、さらに彼らも輪廻からの解脱が可能であると考えてたでしょう。
サンガの考えとは全く別の仏陀がすでにそこにいたことを忘れてはなりません。

富永仲基はこのことをもっと考え抜いた人物です。そして、仏教の考えすぎて、仏陀の本来の教えをゆがめてしまう性質を「妄」と呼び、切り捨てています。
仲基によると、妄を取り除いて考えた仏陀の教えは、倫理的なものしか残らず、現世主義的なものだという独自の論理を江戸時代中期に展開します。
この教えは、当時としてはまだはやすぎたため、ほとんど消されるにいたりましたが、東洋史学者・内藤湖南先生とその知り合いに発掘され、文章が出てきて現代の世によみがえったというわけです。

ここらへんの詳しい話もまたしていきましょう。

ただし、僕はこの議論の流れだけが正しいわけだと言ってるわけではない。つまり、無駄だと思えることがあったのは、無駄だからではなく、その当時には必要な考えで、後世に不要になったためだということは銘記する必要があります。倫理的な要素だけを取り出して、彼はすごいというのも、だから本質的には、正しいことがあっても、すべて正しいわけではないのです。

それを知ったうえで、思想史・歴史を進めていきましょう。まずは大和や和泉、河内、摂津あたりの歴史を考えたいと思います。付随的に、日本や世界の歴史に触れることも多いと思います。

それでも私は次のことを確かめるために、こういったことをするのです。すなわち、すべての考えはつながっている!ということを確かめるために、様々なことを考えます。
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プロフィール

Satoshi Takahashi

Author:Satoshi Takahashi
すべての出会いに感謝いたします。
いろんなことを考察し、可能性を明らかにするブログです。
すべて正しいことが書いているとは限りませんし、逆にすべてが間違いでは絶対にありません。
可能性を信じましょう。そして、もちろん人間の善意も信じます。

大航海時代オンラインでは、『アンチ・クリマクス』『あれかこれか』『レギーネ・オルセン』『S・ヴェイユ』『ヨハネス・クリマクス』『S・キルケゴール』『沈黙のヨハネス』として活動してました。