ウィトゲンシュタイン論考と624そして630ーすべての法則は、複雑な過程をへて単純なものに昇華される
- 2016/04/29
- 20:34
ウィトゲンシュタインの論理哲学論考によると、
6.24
等式にいたる数学の方法は代入法である。
というのは、等式が二表現の置換可能性を表していて、等式に従って表現を他表現に置き換えると、いくつかの等式から新たな等式に進むからである。
6.3
論理の究明とは、あらゆる合法則性の究明を指す。
そして論理の外では一切は偶然である。
ウィトゲンシュタインがいいたいことは次のとおり、
6.24
数学では等式を持って表現し、そのメインの表現は代入であらわされる。
2つの等式の置換可能性を表し、等式に従って(つまり回り道して)表現を他表現に置き換えると、いくつかの等式から新しい等式に進む。
簡単な例でいうとこうだ。
(x-y)(x+y)=x(x+y)-y(x+y)=x^2+xy-yx-y^2=x^2-y^2
^xはxべき乗計算を指す
つまり、ある数式をもっと簡単な数式にするには、両端の数式以外の間の数式がはじめは絶対必要になる。それが理解できれば、間が省略できるのだ。数学ではこれは誰でも理解しているだろう。
では、言葉の表現はどうか。少なくとも、ウィトゲンシュタインは言葉の論理と数式の論理は全く同じではないが、同じような法則が適用できるところもあるという。
それは簡単にいえば、感性からくるものを除いたものでは同じだというのである。
換言すれば、言葉の感情を抜いた論理からすると、言葉でも周り道をししつつ、真理が時代により適用できると彼は考えていたのだとわかる。では次の節を見よう。
6.3
論理の究明とは、一切の合法則性の究明、つまりカントでいえば純粋理性的な能力で行われるものである。
そして、その論理から外れると、一切のものは偶然とみなされる。
つまり、論考の段階のウィトゲンシュタインは、論理のほかに言葉の誤用を許そうとしなかった。私は中期や後期思想はほとんど読んだことがないが、概説書によると、彼はこういった言葉の誤用の問題を常に考えていたとある。ここに彼の一貫性がある。
そして、
7
語りえぬものには沈黙せねばならぬ。
という有名な言葉の誤用の禁止、つまり論理外のものは語ってはならないと、論考段階では考えていたのだ。
野矢茂樹先生によると、
後期ウィトゲンシュタインの言葉で言えば、この7章は次のように要約される。
語ることができない問題については、沈黙せず、語り続けなければならない。
ここにこそ、ウィトゲンシュタインの成長を見ることができる。
これでも哲学を読んだことがない人間にはわからないが、だが大事なのは次の通り。
論考段階のウィトゲンシュタインは、生きているのが辛く、人を信用することが少なかった。
だが、後期のウィトゲンシュタインは、生きているのは辛いからこそ、人と話さないといけない、それが少数でも。と思い至ったのだ。
それゆえ、彼の哲学は生き残ったのだ。
とウィトゲンシュタインの話はおいて、もとに戻すと、
言葉の誤用というのは、ある程度は許されるが、感情論が論理足りえないのは、発展がないからである(つまり偶然に左右される)。発展があるのは、基本的には感情を考慮したものでもあってもいいが、やはり理性的な論理を秘めたものでなければならない。
それゆえ人は話し合って、それをわかりやすい形で(つまり自分にわかる形で)、人に語り続けなければならない。
ウィトゲンシュタインのいいところどりは以上。他の点で見ることがあれば、また見ます。
すべての可能性を閉ざすな!現実を見よ。考えるな、立ち止まって現実を見よ。